正倉院文書調査

昭和五十三年度の正倉院文書調査は、十月十六日より二十一日まで六日間、例年の如く奈良市正倉院事務所に出張し、その修理室に於て原本調査を行なった。この調査は、明治三十三年より本所のために特に許可されて継続実施されているもので、戦前は『大日本古文書』編年文書の編纂出版のためであり、戦後は同じく東南院文書(東大寺開田図を含む)の出版のためであったが、その後最近の二十年間は、正倉院文書の断簡ごとの調書作成に移り、『大日本古文書』出版当時不明であった新たな断簡接続の発見につとめている。
 周知のように、正倉院文書は幕末以来の整理の際に多くの断簡を生じ、かつて接続していて長大な帳簿であったものも断簡として四散し、現状でははなればなれに前後錯乱して成巻されているものが多く、正倉院の宝庫外に流出したものもかなりある。『大日本古文書』編纂の際は、これらの断簡を集成して復原したところもあるが、編年という編纂形式をとったため、原形を伝えられなかった点も多い。
 いま続行中の原形復原を主目的とした調査の結果、従来不明であった断簡の所属が判明し、これまでその性格が不明であった断簡が、ある文書の一部分であることが確認されることにより、新たな史料価値を生じたものがかなりある。ただ問題は、調査があまりにも細部にわたり、また特定の研究テーマを追求する調査でもないため、その成果の公表方法に苦慮することである。恐らく詳細な古文書断簡目録を作成する以外に、全体を総合する方法はあるまいというのが我々の考えであり、調査もそのような意図のもとに進められているのが現状である。
 従って、今日片々たる事実を指摘しても、かえって繁雑になるおそれがあるので、今回もこれまでの調査結果にもとづき、造石山寺所解移牒符案と東南院文書中の東大寺開田図について報告することで、その責をふさぎたいと思う。
○造石山寺所解移牒符案の復原
 造石山寺所解移牒符案は、「解移牒符案」と墨書された題籖が巻首につけられた文書案で、天平宝字六年正月十五日以降、翌七年二月十八日までの間に、造石山寺所が作成した文書の案文(控)を大体文書の作成順に貼りついだものである。『大日本古文書』(十五ノ一三七)では「造石山寺所公文案帳」と題している。
 この文書については、福山敏男氏が「奈良時代に於ける石山寺の造営」(『宝雲』五・七・十・十二冊、昭和八年二月—十年五月、後に『日本建築史の研究』に収む、昭和十八年十月)の中で整理を行ない、岸俊男氏も、「但波吉備麻呂の計帳手実をめぐって」(『史林』四八ノ六、昭和四十年十一月、後に『日本古代籍帳の研究』に収む、昭和四十八年五月)の中で考察を加え、一覧表を作って利用に便せられた。岸氏の功績は、従来『大日本古文書』に未収録であった続修九の裏にある文書の中から断簡数点を摘出してこの中に加えられたことであり、マイクロフィルムを利用することにより、整理は一段と精密さを加えることとなった。
 以下に記す我々の調査結果は、前記二氏により判明したところとかなり重複するが、文書の全体像を明確にするため、目録を作成して断簡の配列順を示すことにする(○内の数字は正倉院文書各巻内の断簡番号)。
    造石山寺所解移牒符案断簡目録  天平宝字六年

『東京大学史料編纂所報』第14号